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HAPON人インタビュー:福島3.11 総てを失った酪農家が東京で復活するまで――ネイチャーシンフォニー 片平晋作(1)

豊かな自然に囲まれた福島の牧場で作る、極上のジェラート。売り上げは毎日4千カップ。売り子さんが「腱鞘炎になりそう」と嬉しい悲鳴を上げる人気店が、かつて福島にありました。ところがその店は、あっけなく崩壊してしまいます。そう、2011年3月11日、あの日を境にして‥。

“原発事故”というまぎれもない人災によって、築き上げて来た総てを失う。およそ人生で考え得る最も絶望的な状況から、奇跡の巻き返しを成し遂げた男性がかつてHAPONに在籍していました。
HAPONで働く人にお話をうかがう“HAPON人インタビュー”。

第3回目は少し視点を変えて、スタート・アップを支援するシェアオフィスならでは、“HAPON卒業生”へのインタビューを試みました。HAPONから更に大きな舞台へと飛び出した農業コンサルティングファーム“ネイチャー・シンフォニー”代表・片平晋作さんにお話をうかがいます。


インタビューはHAPON内会議室で行われた



HAPON人インタビュー:ネイチャー・シンフォニー(1)
『福島3.11 総てを失った酪農家が東京で復活するまで』

HAPON(以下、H):現在は農業コンサルタントとして活動され、そして3.11の被災者でもある片平さんですが、以前は東京のIT企業にお勤めだったと聞きました。まずはそのあたりからお話を伺いたいのですが、ざっくばらんに言って、かなり異色の経歴ですよね。

片平:実は僕は大学時代、3日しか授業に出ていないんですよ。もともとは福島の酪農農家の出身で、大学で東京に出て来たんです。ところがすぐに友人と広告会社を興して、事業に熱中して大学には全く行かなくなって。結局、その会社は取引先の倒産があって5年後に解散しましたが、すぐに通信会社に入社して、2009年まで在籍していました。

H:通信会社と言うと、携帯会社ですか?

片平:はい。

H:2000年代の携帯業界と言えば急成長の真っ只中ですから、非常な激務で・高収入でという、典型的な東京のエリート街道を歩かれていたと思うのですが、農業に転身されたのは何かきっかけがあったのでしょうか?

片平:一言で言えば、“QOL”、Quality of Lifeを考えた、ということになりますね。
僕は、今でも、東京って異常な場所だと思っているんです。産業も、人口も、ものすごい密度でここに集中して、自然と全く隔絶した状態で暮らしていますよね。こんな生活は人間にとって普通じゃないし、少なくとも僕の中では、もっと違う暮らし方をしたいという思いが年々強くなっていました。

H:そこで故郷である福島に帰ろう、と。

片平:はい。面白かったのは、会社を辞める時、役員に挨拶に行くと、皆同じことを言うんですよ。「今の給料が保障されるなら、自分も本当は田舎で暮らしたいんだよね」って。

H:そうだったんですか。まあ、収入の問題は大きいですからね‥。結局片平さんだけが実行に移したということになるかと思いますが、じゃあ、福島でどうやって生計を立てて行ったのか、そのあたりを聞かせてください。

片平:僕の実家は福島県の相馬市と伊達市の境にある、霊山(りょうぜん)という山の麓にありました。原発事故後は「ホットスポット」、正式には「特定避難勧奨地点」と言うんですが、妊婦や子どもは避難が推奨される汚染地域になってしまいました。

ちょっと話が横にそれますが、そこがどんな所だったのかお話ししておくと、まず、僕の家の前には一面に草原が広がっていました。何しろ隣りの家が4キロ先にあるような広大な牧草地です。向こうには山波が見えて近くの岩肌には滝が流れていて、鹿や猿や猪が次々とやって来る。家にいて、ふと窓の外に目をやると、こんな巨大な、70センチもあるふくろうがじっとこっちを見ているんですよ。

H:もう、桃源郷のような場所ですね。

片平:はい。近くの泉に、夜、霧が立ち込めていて、満月の光が辺りを照らしていて‥その風景は今でも忘れられないですね

H:片平さんはそこで、ご両親の酪農業を手伝うことにしたんですか?

片平:いえ、実は実家の方は既に弟が継いでいたんです。いち早くジャージー乳という高級牛乳路線に切り替えて、その牛乳で作ったジェラートを売って、口コミで福島一の人気店に育っていました。

H:一日4千カップ売れていたという、伝説の…

片平:はい。県外からも大勢のお客様がいらっしゃって、一日中50メートルの行列が続いていました。一日4千カップというのは、ハーゲンダッツやサーティーワンのような有名店を含めても、未だに破られていない日本一の記録なんですよ。

H:そうなんですか。個人の店でそこまで売れていたというのはものすごいことですね。よっぽど素晴らしい味だったんでしょうね‥

片平:そうですね。

H:食べてみたいです‥!

片平:僕はその店を手伝いつつ、周辺の農家や酪農家50軒を束ねて、福島ブランドとして売り出す事業を興しました。農産物のクオリティだけでなく、ウェブサイトのデザインも重視して、都会の富裕層など食への要求が高い層に引っ掛かるサイトを作る。そして直接販売するというビジネスモデルです。

H:マーケティングで言うところのブランディング、一つの“見せ方”を作ったということですね。

片平:はい。農家というのは、「いいものさえ作れば必ず売れる」と、本気でそう信じている人たちなんですよね。マーケティングという視点や、それから、SEOなどインターネットの知識を全くと言っていいほど持ち合わせてないんです。
だからこの時代、いいものは作っているんだけれど、競争に敗れて、正に「座して死を待つ」状態です。僕が東京で身につけて来たマーケティング技術を生かせる余地が、ここには広大に広がっていると思いました。それで福島移住を決断したんです。

H:なるほど。片平さんの中では「食べて行けない田舎」ではなくて、ちゃんと事業の可能性が見えていたんですね。

片平:いましたね。

H:実際事業は上手く行ったのでしょうか?

片平:さすがに1年目は厳しい収入が続きましたが、2年目の2010年で軌道に乗って、順調に推移していました。ところがそこで‥


東京からの友人を案内すると、その美しさに誰もが驚嘆したという、片平さんの実家の牧場。高級牛乳“ジャージー乳”乳牛を飼育していた

H:3.11が起こってしまった‥。

片平:はい。あの日から、2週間です。たった2週間で、総てが崩壊してしまいました。と言うのも、僕の実家を含め、50軒の農家のほとんどが、全村避難になった飯館村か、その周辺にあったんですね。たとえ避難地域には入らなくても、そんな所の野菜も牛乳も、もう誰も買いません。全く注文が入らなくなりました。

H:2年間こつこつと築いて来たものが一気に‥

片平:はい。借金を抱えていた農家の中には、その年の野菜が売れないことでたちまち資金がショートしてしまったり、大きく報道されたのでご存知だと思いますが、先行きを悲観して自殺した酪農家もいました。あの方も、我が家の古くからの酪農仲間だったんですよ。

H:そうだったんですか‥

片平:当時、ものすごくつらかったのは、この状態が今年だけのことなのか、翌年も続くのか、全く分からなかったことなんですね。今年の作物が汚染されているだけならまた再開も可能ですが、土から汚染されていたら…。農業や酪農は結局土でやるものですから、仕事自体をあきらめなければなりません。はかり知れない不安に苦しんでいました。

H:…当事者ではない我々がどんなに想像しても想像し切れないほどの過酷な状況だった訳ですが、資料を拝見すると、片平さんは2012年1月には品川プリンスホテルという一等地に、ジェラート店をオープンしています。3.11から1年も経っていない訳で、これほどの逆境から脅威のスピードで巻き返しを図れた、その経緯をゼヒ教えてください。

片平:一言で言うと、SNSですね。SNSの力を徹底的に利用して事業につなげて行きました。

H:SNSと言うと、Twitterやフェイスブックでしょうか?

片平:最初はTwitterで、その後ブログを加えています。

H:Twitterやブログで支援を訴えたということですか?

片平:順番にお話しして行くと、まず、震災直後は、純粋にサバイバルするためにTwitterを使っていたんです。と言うのも、あの地震では、我が家のかなり近くまで津波が来ていたんですね。或る坂の下からは根こそぎなくなっている状態でしたから、ライフラインが寸断されて、水も食料も、電気も服も届かないんですよ。だから、「どこどこのコンビニにまだ電池がありますよ」とか、「うちの敷地の井戸から水が出るから、汲みに来てください」とか、そういう、生きて行くための情報をTwitterで発信していました。

H:ご自分のためではなく、助け合いのために使っていたんですね。

片平:はい。ところがやがて原発事故の影響が明らかになって、牧場をあきらめなければいけないかも知れない可能性が出て来た時、根本的に、SNSの使い方を変えようと決心しました。ブログを立ち上げて、今の心境や現地の状況を、赤裸々に書いてやろうじゃないか、と。ういう、生きて行くための情報をTwitterで発信していました。

H:それはやはり、怒りの気持ちからだったんでしょうか?結果的に片平さんたち福島の方々が、今の日本社会のひずみを総て引き受ける形になってしまった‥そういう状況への怒りが原動力だったのかな、と推測しますが‥

片平:それだけではないんですが、当然それもあります。ブログのタイトルは、「福島の真ん中で『バカ!!』と叫ぶ」としました。今もネット上に残してあるので見て頂くことが出来ますが、当時の状況をリアルタイムで書いています。
行政や東電の対応のでたらめぶりや、津波に遭って避難されて来た方々の混乱した様子や、それから、勝手に人の敷地に入って放射能を測りまくる無神経な県外の人なんかのことも‥。
助成金の説明会に出かけた日には、幾ら受け取れそうなのか、そのシミュレーション額もそのまま書いています。もちろん、最も根本的な問題、先ほどお話しした「酪農を続けられるのか」という不安についても、赤裸々に心境をつづっています。

H:大切に育てて来た牛を、屠殺せざるを得なくなった酪農家の方のことも書かれていますね‥

片平:はい。牛乳が全く売れなくなって、牛を育てること自体が出来なくなってしまった農家がいました‥。こういう、我々の心の底からの苦しみについても書いています。総てを100パーセント、生の状態でさらそうと思いました。

H:なるほど‥

片平:ただ、実はそれだけでもなかったんです。実は僕には一つの計算がありました。考えてもみて頂きたいのですが、僕ら家族にとって、牧場がダメになることは、すなわち死を意味していたんですよね。僕一人なら、前に勤めていた通信会社が戻って来いと言ってくれていたので、実は何とかなったんです。でも、僕の家族はどうするのか?彼らは牛と一緒にしか生きて行けない人たちなんですよね。

この家族を食べさせるために、何とか乳牛関係の事業を続けられないかと思っていました。当時まだ牧場の放射能汚染検査の結果が出ていませんでしたから、数値が低ければ福島に残って続けるし、高ければ牛ごと県外へ引っ越すか、或いは、県外の酪農家から牛乳の提供を受けて、人気店だったうちのレシピでジェラートを作ることも考えていました。とにかくもう一度、どこかでジェラート屋をやれないか、と。

そのためには、福島の現地の人間にしか書けないことを、包み隠さずに書く。そうすることで僕のブログは他に類を見ないものになって、必ず多くの人が読みに来るはずだと思いました。そうやって注目を集めておきながら、次の展開についてもアナウンスして行こう、と。


1日中途切れなかった“50メートルの行列”の様子

H:非常に絶望的な状況だった訳ですが、その中でも、片平さんが20代の頃から培って来たマーケティングの視点が、冷静に働いていたんですね。

片平:そうせざるを得なかった、ということですね。生き残って行くために。

H:はい。

片平:ほぼ毎日ブログを書いて、Twitterに連動させて拡散を図るということを早速繰り返し始めました。

H:反響はいかがでしたか?

片平:狙い通りたくさんの方が読みに来て下さるようになって、すぐにマスコミにも注目されるようになりました。「復活を期しているジェラート屋がいる」と、テレビや新聞で採り上げられて…そこから事業化につながる動きが生まれたんです。

H:正に最初の狙い通りですね。マーケティング戦略の勝利…!

片平:そうなりましたね。TBSが“ざくろ坂プロジェクト”という東北復興支援プロジェクトを計画していて、参加しないかとお話を頂きました。原料の牛乳が放射能検査に通ることが前提ですが、8月に、2週間、高輪プリンスホテルで復興市場を開くので出店しませんか?と。
その時に思ったのは、これをテストマーケティングにしようということでした。「福島のジェラートが売れるのか?」それを試す場にしよう、と。

H:結果はいかがでしたか?

片平:無事牛乳が検査を通り、出店出来ることになりました。それでも、“福島の牛乳”ですからね、どう答えが出るか全く分からないまま初日を迎えましたが、結果は大成功でした。TBSの紹介番組を見てくれた方やブログの読者など、非常に多くの方が来店下さって、熱気のこもった応援を頂いて。本当に嬉しかったです。
同時に味も美味しいと評判になって、とにかく、今後どこの土地でやるのかは分からないけれど、「福島の農家でも受け入れられるんだ」と分かったことが、何より嬉しい収穫でしたね。

H:高輪プリンスと言うと、品川プリンスと同系列ですよね。ざくろ坂プロジェクトでの成功が、その後の品プリ出店へとつながって行ったのでしょうか?

片平:はい。年明け早々に出店しましょうという依頼を頂いたんです。

H:これはすごいことですよね。

片平:本当に、とんとん拍子の展開でした。ただ、実は僕自身はそれだけでは安心出来なくなっていたんです。何しろ今度の出店はざくろ坂プロジェクトとは違い、永続的なものになる訳ですから、絶対に成功させなければならない。
まず、ここが非常に思い切った決断だったのですが、原料にする牛乳は、涙を呑んで県外の酪農家の牛乳を使うことにしました。実家の牛乳も検査を通ってはいましたが、やはり“福島産”というだけで敬遠する人も多いだろう、と。文字通り、身を切る、冷酷な経営判断をしました。
そして、「被災した酪農家が頑張っている」「伝説の味」だけではまだ足りない。多くのお客様を開拓するために、更なる起爆剤が必要だ、という思いもひしひしと湧き上がっていました。

H:「品プリに出店!」という幸運にも浮かれず、あくまで冷静な視点をお持ちだったことはすごいと思います。やはり、20代の頃に東京のビジネス最前線におられた経験が、深く慎重な視点を育んでいたのかも知れませんね。

片平:そうかも知れないし、もう、とにかく必死でしたね。それで決断したのが、イタリアの権威あるジェラートコンテストに出場しようということでした。入賞出来れば本場から味のお墨つきを得たことになり、舌の肥えた東京の人々へアピール出来るんじゃないか、と。

H:なるほど‥!

片平:結果、歴史ある大会で入賞して、それを看板に2012年1月、イタリアン・ジェラート店「セレーネ」をオープンしました。更に開業後も別のイタリアの大会に出場して、そこでは市民投票で4位を獲得しているんですよ。

H:それだけお墨つきがあれば、強力な品質保証になりますよね。売り上げは順調だったんじゃないですか?

片平:非常に順調にリピーターを増やして、人気店と言える店に成長しました。福島の田舎の、それも被災者が経営する店が、激戦の東京で勝ち残ることが出来たんです。



片平さんのお話を伺っていると、レイモンド・チャンドラーの小説に出て来る有名な台詞「強くなければ生きて行けない。優しくなければ生きている資格がない」を思い出しました。

ごく若い時から、東京での厳しい競争に揉まれ、現代のビジネス社会で生き残る術を身につけた片平さん。けれどひたすら強さを追い求めるだけの生き方には価値がない=生きている資格がないと、故郷である福島へ帰られた――それは、「福島を生かすために、東京で得た強さを使う」という“優しい選択”だったはずです。

しかし、その矢先に起きた、311震災と、原発事故。東京を中心とした現在の“強さ”のシステムに完膚なきまでに押しつぶされてしまう寸前、しかし、片平さんは、その東京で鍛え上げた“強さ”を駆使して再起しました。――今回のインタビューでおうかがいしたのは、ここまで。では、この“強さ”を、片平さんは次にどんな“優しさ”のために使おうとしているのか?
次回は、2014年現在の片平さんの挑戦をおうかがいして行きたいと思います。お楽しみにお待ちください!

(取材:西端真矢、HAPON 文:西端真矢)


HAPON人インタビュー:農業=食べて行けない?――マーケティング手法で農業を変革する 農業コンサルタント・片平晋作 (2)

これまでのHAPON人インタビュー:
気鋭のプロデューサーズ・カンパニー、Epiphany Works
コンサルティング・ファーム、USPジャパン

本棚「PON棚」について


HAPON新宿のオープンエリアには本棚があります。
本棚はHAPONにちなみ、「PON棚」と名付けました。



「PON棚」は、人と本が出会う偶然を演出するユニットbook pick orchestra
HAPONをイメージしてセレクトしました。
ブックピック代表の川上洋平さんからセレクトにあたってコメントをいただきました。

『HAPON 新宿のイメージに合わせて、
 新宿から東京、日本のイメージ、そして世界へHAPONするための
 ヒントになりそうな本を並べています。
 HAPON 新宿とともに育っていくような本棚を作っていこうと思っています。』

オープンエリアではご自由に手に取ってご覧いただけます。
また、フロントにて販売もしております。
仕事の息抜きに、発想のお供に、ご利用ください。

(ナガモリ)


HAPON新宿:PON棚について



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